@article{oai:hirosaki.repo.nii.ac.jp:02000070, author = {外崎, 英明}, journal = {弘前大学大学院地域社会研究科年報}, month = {Mar}, note = {大正から昭和初期の弘前で「茶太樓新聞」と題する新聞が発行されていた。発行人は「茶太樓」こと古木名均(こぎな・ひとし、1886~1938)。題字で「花柳界の御用新聞」を自称していたように、その内容は花柳界が栄えた当時の地方都市弘前の街の在り方と深く関わっていた。また「資本家の奴隷雑誌」とも称し、大正デモクラシーの気風も色濃く反映されていた。だが茶太樓新聞はこれまで、学術研究の対象として取り上げられておらず、その存在は地元弘前でも広く知られているとはいえない。本稿は茶太樓新聞研究の端緒として、その基礎的情報を整理するとともに、古木名の生活環境や茶太樓新聞創刊前に古木名が執筆していた「弘前新聞」の署名記事を見ることを通して茶太樓新聞が成立に至るまでの過程を明らかにすることを目的とした。 茶太樓新聞は推計で計650号が発刊された。筆者が勤務する地方新聞社「東奥日報社」(本社青森市)と横浜市の「神奈川近代文学館」にまとまった量が残されているが、その残存率は約50%だった。 古木名は弘前新聞紙上に幅広いジャンルの署名記事を掲載。特に本名で書いた論説の多さは注目に値するものであり、中でも連載「娼婦觀」に代表される、社会的弱者に寄り添った視点や、花柳界をめぐる諸問題に対して提示された倫理観には茶太樓新聞の萌芽を見て取ることができた。そして古木名の花柳界への関心は、幼少期の生育環境が花柳界と近接していたこと、そして弘前が軍都となっていく過程で、その花柳界が長じての奉公先の近くに移転していったことの、二つの偶然に強く規定されていた。つまり、茶太樓新聞は、古木名の生活環境に強い影響を受けて生まれた、非常にオリジナリティーの高い著作物であると言える。}, pages = {3--13}, title = {「茶太樓新聞」とその成立前史}, volume = {19}, year = {2023} }